【亜】育ち方・両親・家庭1OCT2005 チョット異例タイプ記事投稿します。 先週、会社の人と飲みに行って色々話していて、 私 という人間 について話していて、 【親がスゴイと思う】と仰っていたので、 一度軽くまとめてみようと思いました。 (Tさんの為に書きますヨ。読んでますか?笑) このコアページの真ん中の黄色文字部分でもチョット親に対する気持ちが出てるんだけど、 あまり今まで私はここに親事情を出した事はないです。 だからやっぱチョット新鮮ネタかな。 自分自身もそうだけど、自分が興味を抱いている人については 全て、何でもかんでも自然に知りたくなるもの。 私という人物に対して、そういう【興味】を抱いてくれている方々の為に、 そして自分自身の中でもまとめ、整理になるので 記録しておこうと思います。 -------- まず、私は 本当のお父さんを知りません。 こういう事を言うと皆一気にドヨ~ン、っていう気ィ遣いモードになるけど、 強がりでも何でもなく本当に私、それに対して何とも思っていないから! だって、記憶もないし、会った事も、思い出も無い人物に対して、 寂しいもくそも無い。 でも、聞いた話によると彼はそんな私の気持ちと180度逆で、 私の事気になるみたい。(当たり前か。) 私の実父というのは、私でもぞっとするような事をする人で (間接的に事実を見ました)、自分はその血を引いているんだと思うと何とも複雑な気持ちになった事もあります。 興味で会ってみてもいいけど、今は別にどうでもいい。 この実父話をし出すと、話がそれてっちゃうので今回はストップ。 フツーに話す気マンマンだけど。笑。サスペンス劇場みたいに。 私は、税関で働くエリート兼キチガイアル中暴力旦那(という情報)と看護婦の母の間に東京で生まれた。 デキ婚なのか知らないけど、とりあえず出会ってすぐ結婚までがどばやかったらしい。 私がまだ赤子というか超小さいガキの頃に離婚。 何歳なんだろ? 知らん。 多分、人間は3歳前の記憶はないって言うから、 そんぐらいだと思う。 物心ついたら、私は豊橋のマンションで母親と二人暮し。 彼女はいわゆる【シングルマザー】だった。 彼女はずっと病院のオペ室看護婦だった。 私は保育園や従兄弟やおばあちゃま達の家に預けられながら、 働くママの元で育った。 小さい頃1回だけ彼女を泣かせたのを覚えている。 グンゼシャツみたいな肌着が嫌いで、 朝の保育園に行く前の支度の時に私がそを着るのをずっと拒否していて、 母親が 【お願いだから着て~!】って泣き出した。 保育園に連れてって、それから出勤しないといけないのに、 アホな私がグンゼシャツを着ないもんだから、仕事に遅刻しちゃうから 泣いたんだろう。 後、私が彼女から受け継いでいる癖。 爪を噛まないんだけど、爪で爪をカッカッカッっていじってむしる??行為。 その音。 静かな時間とかでもその音がしてる記憶。 その癖、完全に私の遺伝子に入ってる。 爪噛まないけど、むしる。 カッカッカッって。 ある週末の昼下がり、 今のお父さんが私と母親のマンションに来た。 母親が言った。 【新しいお父さんだよ。】 亜【フゥ~ん。。。。】 まだ補助輪付の自転車に乗って、 マンションの駐車場を爆走して、長いポニーテールを靡かせて、 姫になる事に憧れていたアリサ、当時5歳。 夕方になると豆腐屋が近所に来るそんなエリア。 豆腐屋の音を聞きながら、夕暮れ時にやっていたあの 駐車場内を片側から反対側まで行き、 その往復を繰り返すだけの 自己満足、自己陶酔、自分は姫妄想爆走は 自分でもクリアに覚えているんである。。。笑。 (因みにどちらか行き止まりまで走りついたとこで、 数秒間たそがれるポーズをしていたのも自分で覚えている。。。 かなりのナルシスト行動だよ、あれ。ウケル。。。。) そんなガキの脳みそでも 【新しいお父さん→本当の父親ではない】 という明確な認識はあった。 その後、何か結婚式があったんだよ。 私はピンクのドレスを着て、 母親のウェディングドレスの裾を持った。 ある意味、自分の母親の結婚式のそれをやる子供って 普通じゃないよね?? 再婚ならではだよねぇ。 今、書いてて気づいた。 で、何か猿みたいに毛深い赤子が生まれた。 それが妹・恭子チャン。 大人になると、妊娠は何ヶ月~とかいう知識が出来るから、 私自身はそういう計算ってしないんだけど (計算ができないっていうのもあるんだけど) 妹が自分で曰く、自分はデキ婚の子供とか言ってた。笑。 新しいお父さんは、 母親の中学時代の当時モテモテ若い男性教師。 年の差14歳。 再婚同士。 一体どうしてそうなったのか、やっと聞けたのが数年前の話。 何か、文通しとったらしいよ? ちゅ~か、こんな話書いとるってわかったら 切れそう。あの人。 でも、時間の問題だら。 私がもし有名になったら(妄想、妄想) ・…アリサは1977年東京新宿にて産声をあげる。。。 てな感じで始まる年表が作られるだで。笑。 基本的に私はanti家庭系の子供だった。 お父さんには一切なつかず、ずっと【他人】という意識で生きていた。 その点実の娘の妹はむっちゃパパっ子でベッタベタで、それが余計に私を彼から遠ざけた。 母親は、炊事洗濯家事全部毎日毎日こなしながら、 看護婦。。。 我が家ではトイレやキッチンのカレンダーに予定が書かれていて、 母親はエミコなので○の中にEの○E、私はアリサだからA、オトサンはヨースケだからY、妹キョーコはK、でその後に予定が書かれる。 【タイキ】という片仮名の言葉がカレンダーに散りばめられている。 その【タイキ】っていうのは 【待機】という意味で、 母親の病院の緊急手術だとかでの夜間緊急呼び出しとかのための【待機】を意味する。 その為、彼女はタイキの日はポケベルを持たされ、 それが真夜中に鳴ると、 病院に折り返し電話をして、 それでそそくさと用意をして出て行く。 朝になって帰ってくる。 朝になっても帰らない時もあった。 そういうのを色々調整して、 授業参観や家庭訪問、個人面談、学芸会、運動会、色んな行事に合わせてくれていた。スゲ~よな。。。 夜間に家中にけたたましく響くあの ピーーーーーーーーーーピーーーーーーーーーーピーーーーーーーーーー!! っていうポケベルの音、 あれで猛烈に悲しいとか嫌だと思った事はないけど、 またか、って感じで 嬉しいと思った事はない。 でも、薬の事とか病気の事とか色々物知りで何でも知ってる母親は頼りがいがあった。 何かで叱られて、オレンジの細かい水玉のパンツいっちょで家の玄関先に放り出され鍵をかわれ、真夏で蚊にさされながら、家の前に住むお父さんのおばさんにあたる人が、【一緒にお母さんに謝ってあげるで、家に入ろう。】とか言ってくれてたのも思い出す。 怖い人ではあった。 私は【アリ】と呼ばれて育ち、 【自分の子供をちゃん付けして呼ぶなんて信じられん!!】 という母親である。 とかいって、私は別に彼女を【お母様】と呼ばされるわけでもなく、 【ママ】と呼んでいて、 それが小中学生の頃は恥ずかしくて隠していたんだって。。。 当時はまだ【お母さん】と呼ぶ派が主流の時代だから、 本当に真剣問題でした。 学校でウンチできないのと同じレベルで、 自分が母親を【ママ】と呼んでいる事は必死で隠蔽していました。 お父さんになつきはしなかったけど、 彼は公立中学の先生で何か暴走族とかヤンキー全盛期に 生活指導担当とかで、 生徒からとりあげてきた漫画本とか、 持ち主の見つからない文房具忘れ物とか 家に持ってきてくれた。笑。 鉛筆で断面が★型やハート型になっているのがあって、 忘れ物の中から見つけたその鉛筆を大事に私は使ってた記憶がある。 小1の時はHBの鉛筆を使うのが禁止されていて、 Bか2Bじゃないといけなくて、 私はそのHBの鉛筆を更に自分の小学校で先生に叱られて没収された覚えがある。 この★型鉛筆の一生もドラマティックな旅多きものだと思う。 漫画の方はというと、 【まいっちんぐマチコ先生】があって、 それもまた 【TVでまいっちんぐマチコ先生を見ている】という事実は 小学生の間では基本的に恥じらいというか、 冷やかしの対象になるから隠蔽必須。 (とかいって、皆見てんだよ。。。笑) だから、漫画なんて持ってるという事は大秘密。 あと、家出少年少女の捜索に、母親の【タイキ】じゃないけど、 お父さんもよく学校から呼び出されて夜出て行く事もあったなぁ~。。。笑。 ていうか、私も調子に乗って段々細かい思い出話になってきとるなぁ。。。 とても終わりそうもないなぁ。笑。 いきなり飛ぶけど、 私の育て方っていうのは基本的に母親の意見で決めていたと思うんだけど、 (少なくとも私に関しては、妹は違っても) 私は色んな事をさせてもらったと思う。 毎年夏休み、冬休みは必ず家族旅行があって色んなとこへ行った。 でも、いつも基本的に私の感動、反応が少ないようで母親が怒っていた気がする。笑。 後、日本旅行系の子供向けの旅クラブみたいなのに入って、 何度か子供だけの旅に参加したり、 太平洋沖に2泊3日位フェリーで旅するこれまた子供の旅、 あと、テレビ局主催の少年少女の旅とか言うので、 グアムサイパンに豪華客船で行く2週間の旅って言うのにも行った。 すぐ辞めたけど、おきまりのお習字そろばんもやった。 幼児の頃からヤマハ音楽教室に通って、 音楽全般、ピアノの個人レッスンも受けていた。 頼んだわけでもないのに、私は小学校2年の頃から 少女漫画の月刊リボンを同級生の誰よりも早く購読開始していて、 殆どの漫画をまともに読めない状態だった。 全プレ(全員プレゼント)と懸賞の違いもわからなかった。 百科事典とか、歴史の本や、代表的文学作品とか新しい本を一杯買い与えられた。 反してぜんっぜん読まない私。 本は読まない。 読めない。 多分、実家に戻るとあれらの本がきれ~いに残ってるはず。 妹も読まないだろうし。 笑。 絶対、ファミコンとか買ってくれなかった。 りかちゃん、バービー系も絶対買ってくれなかった。 妹が家の前のおばさんにバービーの家までついたスンゴイセットを誕生日に買ってもらって、我が家に波紋が広がったのを覚えている。 私が覚えているおもちゃの中でも、 九九覚える用の教育玩具で、 ポンって2x2とか書いてあるところを押すと、 キューブ状にポンって上にボタンが飛び出てきて、そこの側面に【4】って答えが書いてあるやつ。。。 あっれがもう、つっまんなくて、答えなんてわかってるもんだから、 その立体的に出てくるので立体文字を作ったりして全然違う遊び方をしていた。こういう風に↓(ま) 123456789 1■■■■□■■■■ 2■□□□□□□□■ 3■■■■□■■■■ 4■□□□□□□□■ 5■■■■□■■■■ 6■□□□□□□□■ 7■□■■□■■■■ 8■□■■□■■■■ 9■□□□□■■■■ こうやって読んでいると、何か厳しくコントロールされているかのようだけど、 与えるものは与えておいて、でも後は強制されなかった。 だから、今思うと結構な宝持ち腐れている。 親の希望通りには全く育っていない。 親としては不満かもしれないけど、 色々与えて後は勝手にさせるというのはいいアプローチだと思う。 でも、余りにも親の時間が無いために、 本当に解説やガイドを受けた覚えがなく、 でもそれが逆に自分で考えてやる能力を養わせたのだろっか。。。 あと、大小本物の注射器も私は実は所有していて、 (勿論針なし、笑) ほんとぶっといのは直径5センチ長さ10センチ以上あって、 それ水鉄砲になっていたから。 そう思うと、母親を訪ねてよく行っていた病院の手術室(の職員控え室)も中々貴重な体験だったかも。 ドアを開けると、まず巨大ゴキブリほいほい状態で、 履物のほこり、汚れを取る粘着マットが引いてあるんだけど、 あそこでいつもスリッパが強力にとっつかまって、 本当にいつも自分をゴキブリほいほいの中のゴキブリと思っていた記憶がある。 あの、消毒のニオイと、 薄エメラルドグリーンの、本当の白衣のカワイイイメージのナース服じゃない人達が出入りする空間。 そこでオムライスの出前をとってもらって食べる自分。 病院は好きだった。 病院のニオイも。 やっぱり病院=母親 だったからかな。 先生や看護婦さんにもかわいがってもらえたし。 何か手術室に顔パスで出入りできる自分が 子供心なりに誇らしかった。笑。 手術室でも【ママさんママさん】と若い看護婦達に慕われて、 結構年齢イってるくせに、 一緒にKing&Queen(東京青山のディスコの豊橋支部。笑)に行って、 今日もVIPルームで…とか自慢してくる母親だった。 いまだに実際のその場の様子を見る機会なんて遭遇した事がないけど、 一体。。。 チョット実は見たくない光景だったりする。。。笑。 ていうか、もうこれシリーズ化にしとこう。 これが第1弾。 簡潔に書こうとしても、すぐ逸話を説明しだしちゃうわ。笑。 いつか、結婚式で親に対する涙のスピーチの機会があれば きっとこれが役に立つから適当に書き溜めておこう。 こっそり。 (ブルちゃん、職場でエミコにちくっちゃいかんに?) コメントはこちらへ ジャンル別一覧
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